『海王丸と小さなヨット』第32回フォトコンテスト最優秀賞           撮影:㈲ワタナベ営繕設備 渡邉友子氏

『海王丸と小さなヨット』第32回フォトコンテスト最優秀賞           撮影:㈲ワタナベ営繕設備 渡邉友子氏

名古屋の風景

愛知県体育館

吉田 信彦氏(水道組合)
吉田 信彦氏(水道組合)

 大相撲七月場所(名古屋場所)は、当体育館の完成により1965年から開催場所が移転し、名古屋の夏の風物詩として親しまれている。

 2026年に開催するアジア競技大会までに愛知県体育館を「国際競技大会を開催するにふさわしい、スケールアップした施設とすることが必要」として、現在地から800メートル北の名城公園北園内の野球場に移転を正式決定。現体育館の改修は最低限に留めて大相撲名古屋場所などのイベントについては支障なく開催し、新体育館完成後には移行できるようにする。

会議コーナー

定 例 理 事 会

理事会風景(総務委員会)
理事会風景(総務委員会)

理事会風景(資材委員会)
理事会風景(資材委員会)

1.開催日時   7月6日(金)

           午後2時

 

1.開催場所   水 道 会 館

 

1.理事定数   17名

 

1.出席理事   17名

青年部会コーナー

第148弾定期夜間勉強会

開催日  6月20日(水)

                                    参加者  31名

  技能開発部会・青年部会共催

 

 

 今回の定期夜間勉強会は、日本ヒルティ株式会社を講師に招き「あと施工アンカーの基礎

知識」というテーマのもと勉強会を開催しました。

 初めに、アンカーの分類の説明を受け、次に今回のテーマでもある、あと施工アンカー

の分類の説明を受けました。

あと施工アンカーとは、「金属系アンカー・接着系アンカー・その他」に分かれており、

種類だけで何十種類もあり、それぞれ違った施工方法である事を教えて頂きました。

次に、アンカーの固着原理や災害事例などのお話をして頂き、固着原理としては

金属系では摩擦+支圧、接着系では樹脂付着力+支圧という原理で固着する話を聞き

ました。アンカーでの災害事例としては、ほとんどの災害原因として共通していたのが

「穿孔径の違い・打込み不足・穿孔内清掃不足」などと言った事があげられました。

これらの施工がしっかり施工されていないと、固着力・樹脂付着力・支圧力が十分に

発揮されず耐荷重力が弱まりアンカーが抜け落ちるといった災害に繋がる事を知り

再度、アンカー施工の重大さを認識しました。

今では、「あと施工アンカー施工士」や「技術管理士」といった資格があるのを知り

アンカーの奥深さを知りました。

今後も皆様のお役に立つような勉強会にしていきたいと思っておりますので皆様の

ご参加を心よりお待ちしております。

 

青年部会 西支部  林 勇作

 

 

お知らせコーナー

第60回 水道週間行事

 61日から7日は全国水道週間でした。その一環として名古屋市上下水道局主催のなごや水フェスタが開催され、名水協として()LIXILと共にブース出展で参加しました。来場者の子供たちに対して水道に親しみを持ってもらいたいとの想いから配管工作教室としゃっちー君の紙帽子工作を行い、()LIXILが水の学校という子供向けのクイズを交えた紙芝居を行いました。

 当日は早朝の不安な雲もすぐに去り、青空が広がり、気温もあがる中、会場の鍋屋上野浄水場には非常に大勢の方が来場されました。その勢いに圧倒されながらもお子様連れのご家族や、友達同士で来ている子供たちへと声をかけブースへと誘導しました。初めのうちは集客に苦戦していましたが一組、また一組と参加していただくうちに気付けば人だかりができていました。

 配管工作体験では、一時間ごとに整理券を配布していましたが20分もすると定員に達し、帽子工作は順番待ちの列ができ慌てて席を増設するほどでした。

 配管工作体験が始まると参加した子供たちはパイプカッターやモンキーレンチなどを物珍しそうに手に取り眺めていました。実際に寸法をはかり、ペンで印をつけ、切断する時の真剣な表情と一緒に参加している子たちと協力して配管を組み立てる楽しそうな様子がとても印象的でした。

 紙帽子工作では、より小さなお子様連れの方々にも参加していただきました。線に合わせてハサミで慎重に切り、正しい位置にホッチキスで止めるなど、時に失敗することもありましたが親御様の力を借りながら一生懸命頑張っていました。完成した帽子を私に自慢げに見せに来て、実際に頭にかぶって会場内を歩く姿がとても嬉しかったです。

 子供たちと接していると我々大人たちも自然に笑顔になりとても楽しい空間が作れていたと思います。担当していただいたメンバーの協力のおかげでケガやトラブルもなく配管工作と帽子工作あわせ約240名ものお子様に体験していただくことができました。この経験が少しでも子供達の中で水道業界への興味へと繋がれば嬉しく思います。

 今後とも名水協として様々な行事に参加することで業界発展へと協力していきたいと思います。

 

青年部会 瑞穂支部 美野 太陽

 

特別寄稿コーナー

協働による災害対応力の強化について

名古屋市上下水道局 経営本部 営業部

主幹 柴田 重虎

 

名古屋市指定水道工事店協同組合の皆さまには、日ごろから上下水道事業にご理解とご協力賜り誠にありがとうございます。

私は、今年4月から現在の職を拝命しておりますが、3月までは広報サービス課で広報係長をしておりました。前職では、なごや水フェスタへのご出展をはじめ、マスコミ取材にも数多くご協力いただくなど格別のご配慮を賜りましたこと、あらためて厚く御礼申し上げます。

 さて、この原稿を書いているさなか、台風7号や梅雨前線の影響によって「平成30 7月豪雨」と呼ばれる記録的な大雨となり、全国各地で甚大な被害が発生しました。当局は、飛騨川上流域での大雨の影響による岐阜県内の水道施設の被害状況の調査を行うため、日本水道協会(以下「日水協」とします。)中部地方支部として、78日に下呂市に先遣調査隊を派遣し、被害状況の調査や他都市応援隊の応急給水活動に関する取りまとめなどを行いました(同月10日終了)。また、同月12日には、日水協本部からの要請に基づき、大雨の影響で断水が続く広島県呉市に、中部地方支部の他の自治体とともに応援隊を派遣し、応急給水活動などに取り組んでおります(同月17日現在活動中)。この場をお借りして、災害により犠牲となられた方々のご冥福と、一日も早い被災地の復興を心よりお祈り申し上げます。

 ところで、災害による水道施設への被害というと、これまで主に地震によるものが想定され、本市においても浄水施設や管路の耐震化などを進めているところですが、今回の大雨による被害は、浄水施設の冠水や土砂崩れによる水道管の破損などほか、河川への土砂の大量流入による水源水質への影響で浄水処理が停止する、といったことが原因で断水に至るというものでした。こうした経験は、水道事業における今後の施設整備や浄水処理の運用などにおいて、少なからざる課題を投げかけることになるものと思われます。

今後、こうした課題解決に向け事業者として様々な対策を検討、実施していくことになると思いますが、いずれにしても大規模災害への対応は行政のみでは限界があり、個々人による日頃からの準備に加え、発災時における民間事業者さまなどとの協働が不可欠であることは論を待ちません。この点において、貴組合におかれては、当局との協定に基づき応急活動の一翼を担っていただいており、災害対応力の強化の観点から非常に心強く感じるとともに、深く感謝をいたしております。

私が所属する営業部は、発災時における応急活動の総括が役割として与えられており、特に拠点給水や緊急止水、応急復旧などにおいて貴組合との連携を密にした活動が想定されております。今後、貴組合との協働による本市の災害対応力の強化について、微力ながら尽力してまいりたいと考えておりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

 

筆の泉コーナー

私と日本酒

名古屋市上下水道局 営業課

主事 三輪大貴

 

 「あなたの趣味はなんですか?」。今年も新年度を迎えはや4か月、色々な飲み会やふとした会話の中でみなさん一度や二度は聞かれたことがあるかと思います。こう聞かれたとき、私は基本的に「野球観戦とジョギングです!」とお答えをしておりますが、実は私には人にあまり言わない趣味があります。それは、「日本酒を飲むこと」です。

 以前は「日本酒が好きです」と公言しておりましたが、公言をしたが最後、「のんべえ」「おじさん」と職場などで不名誉な称号がついて回るようになり、挙句の果てには風邪をひいても「昨日飲んだの?二日酔い?」と心配すらされなくなってからは、初対面の人にはあまり言わないようになりました。

 

 そんな私の日本酒との出会いは20の頃。当時大学生だった私は、「強い酒が飲める男はカッコイイ」というよくある若気の至りのもと、安い大衆居酒屋に仲間と行っては飲めもしない日本酒を一つ覚えに注文し、「やっぱ冷やが一番だよね」といいつつ、最初はこんな不味いもの…と思って飲んでおりました。

 その私の価値観を変えたのが22の時、親しい友人と2人で行った小料理屋で飲んだ三重県の「而今」というお酒でした。一口飲んだ瞬間に広がる今までとは全く違う、コクがありながら後が全くべたつかず、香りも芳醇ながらきれいに消えていく。今でも忘れない日本酒のおいしさを初めて味わった瞬間でした。

 そこから先はずぶずぶとハマっていき、おいしい日本酒を求めて栄の百貨店をうろついたり、あるいは北陸や三重県へ出かけたりと、今や私にとって日本酒は無くてはならない人生のパートナーになりました。

 そして、そんな日本酒の製造において最も大切になってくるのが「水の質」です。

「洗米」「発酵」「仕込み」など多くの製造過程で水が使われ、水の良し悪しで酒の味が変わってくるといっても過言ではありません。特にこの地方では、木曽川の流域で清らかな水から多くの上質な日本酒が製造され、この地域の日本酒を飲む度に、キレのある美味しさをかみしめると同時に、この木曽川の美味しい水を指定工事店の皆さまと共に名古屋市民の皆さまへ安全にお届けする責任の大きさもかみしめています。

 

私のこの拙いエッセイが掲載される頃には季節は夏、今年も市場にひやおろしの日本酒がそろそろ出回っていると思います。そして、このエッセイを書いているだけでも、日本酒が飲みたくなってくる私ですので、きっと相変わらずどこかで日本酒を飲んでいるのではないでしょうか。

談話室コーナー

魅惑の台湾8泊9日の旅行

                                  緑支部・E・K

 

 2011年3月11日の東日本大震災に最大253億円も支援してくれた台湾に少しでもお礼をしたくて今回の旅を企画しました。6月11日の朝6時30分自宅を出発して一路、中部国際空港へ7時10分頃到着、CI-151便のチャイナエアラインのカウンターで荷物を預け制限区域へ。当初は、格安航空LCCで行く予定でしたが個人手配で台湾は初めてなので時間的によい正規航空券を選びました。値段は格安航空券は20,000円で魅力的でしたが諦めて12,000円高い正規航空券にしました。(それ以外に燃油サーチャージ・保険・航空税で10,000円プラスになります。)

 朝食を食べにユナイテッドラウンジで軽食を取って次にKALラウンジで飲物を頂き休んでいると時間になり機内へ。機内食を食べて映画を見ていると台湾桃園国際空港に着きました。まずは地下鉄、バス、タクシーに乗れる悠遊カードを買ってバスで台北市内へと思っていましたが、カードを買ったのが地下鉄の切符売り場だったので地下鉄で行きました。バスだと乗り換えなしでホテルまで行きますが、少々時間がかかります。地下鉄(MRT)だと37分640円、バスは55分(ラッシュアワーの時は時間がもっと要します)500円です。MRT桃園機上線に乗り三重で中和新○線(新と線の間に日本に無い漢字一文字が入ります)に乗り換え中山國小駅で降り歩いて4,5分で今回お世話になるインペリア台北に着きました。(私的には5星です)朝食と夕方18時より2時間アルコール飲み放題。たいしたことの無いつまみが食べ放題。最後に夕食が6~7種類より選ぶ(エビチャーハン、リゾット、パスタ等)付きの1016号室トイレはウオシュレット付きバスタブ有りの部屋です。(夕食は、ホテルのレストランで作るのでかなり本格派です)着いてすぐにセブンイレブンで部屋で飲むアルコールとつまみを調達してラウンジに行きビールで今回の旅行が良いものになります様にカンパイして最後にリゾットとカルボナーラを少し食べてラウンジを後にして今日は早めの就寝です。

 6月12日はバスで九份に行きます。MRT板南線忠孝復興駅より1062番のバスです。台湾のバスは時刻表がなく、来たバスの番号を見て手を挙げて止めて乗ります。約一時間半かかり料金は400円です。バスは必ず席数しか乗せません立っていては乗せません(高速を走るため)九份老街で降りセブンイレブンの横より基山街のみやげ物店、食べ物店等過ぎ中程に下る階段を降りると九份石畳階段です。昔、金鉱で栄えたレトロな街です。4年前、緑支部親睦旅行で来たとき皆でお茶を飲んだ海悦楼茶坊でウーロン茶をいただき港の方を見て、夜に来ると眺めが良い所だろうと思いました。次回台湾に来るときは、ぜひ夕方から夜にかけて訪れたいです。ただ夜は、非常に混雑するのでバスで帰れないとのことです。

夕方ホテルに帰りラウンジでビールを飲んで飲んでお休みです。

 6月13日は中正記念堂に行きます。ここは将介石を記念して建てられた巨大なモニュメントです。とにかく広い八角形の屋根は忠・孝・仁・愛・信・義・和・平の八徳を表しています。衛兵の交代式や将介石の写真等を見て夕方MRT淡水信義で土林夜市に行きました。台湾に数ある夜市で最大の夜市です。私の大好きなB級グルメの宝庫、数々食べましたが青菜炒めが一番おいしかった。飲んで飲んで飲んでホテルへ、少し休んでホテルの紹介でカラオケラウンジへ、2人で歌い放題つまみ放題食べ放題4,800円。ビール1本400円2人で20曲以上歌い上機嫌でホテルに帰りお休みです。あ~あ楽しい1日だった。

 6月14日今日は楽しみにしていた国立故宮博物館へ255番のバスで土林に行きバスを乗り換えて行く予定がどこでどう間違えたかとんでもない所についてしまい右も左も分からない?仕方がないのでタクシーで国立故宮博物館へ1,400円の入場料と600円の日本語音声ガイドを借りてデボジットとして日本の運転免許証を預け入場です。昔の人良くこんな物を作ったなと感心して拝見しました。今日1日有意義に過ごしたのでホテルのラウンジで飲んで飲んでお休みです。

 6月15日は以前から行きたかったテレサ・テンのお墓に行きます。MRT板南線忠孝復興駅より1815番のバスで金山まで2時間で400円です。金山からタクシーで2,400円。最初タクシーに乗ってテレサ・テンの墓地まで行ってと言うと運転手さんは日本語が通じないので知らないと(多分中国語で言っている)仕方がないので私が歌を(窓に明かりがと)歌うと紙に漢字で書きました。(少しやけくそぎみ。女房にだからパンフレットを持ってくればと散々言われた)タクシーは寂しい人里離れた所へ。大丈夫かなと思っていたら大きな公園に着き、運転手さんが指差す先に黄金のテレサ・テンの銅像が立っていました。近くに行くと歌が流れていて雨の日だったので何か寂しい思いに駆られます。42歳で1995年にタイのチェンマイで嘆息の悪化で死亡とされています。雨の日なので私たちだけの墓参りです。日頃は、香港の方が多いそうです。銅像は日本の沖縄の方を見ているとのこと戦後の政治状況に翻弄された悲しい人生だったと雨が降っていたので特に思えました。気分直しにホテルのラウンジで飲み倒します。

 6月16日は総統府。228和平公園、國父記念館に行きます。総統府はとにかく怖かった。自動小銃を持った警備兵士2人と拳銃を持った2人が常に前を通る人を睨んでいます。韓国の方が写真を撮ろうとしたら自動小銃を振って(撮るなどこかへ行けと)中国語で言っている様だ(推測だが)日本の首相官邸の前の公道で自動小銃を持った兵士が警備しているのと同じです。日本は平和なのか平和ボケなのか、台湾の置かれている立場が良く解かります。

228公園は1947年2月28日に起きた国民党政府の暴力的に抑圧された人民の反乱事件です。台湾人約数千人が亡くなる歴史的事件を記念して造られた公園です。國父記念館は中国近代革命の父である孫文を称えて造られた記念館です。館内には孫文の大きな銅像が有りそれを守る衛兵の交代式が時々あります。(台北では衛兵の交代式はツアーで行く忠列祠、中正祈念堂、國父記念館3箇所)交代式を見て今日は疲れたのでホテルへ、近くの夜市に行って何か食べようと行ったのですが豆腐が腐った食べ物の異常な臭いで何も食べれないのでラウンジで静かに飲みました。

 6月17日は台北101絶景タワーへ。5Fで1人2,400円のチケットを買って89階展望台へ昇って思い出した私は、高所恐怖症でした。女房は一番前で台北の街並みを見下ろして昨日行った國父記念館、円山大飯店等見ていますが私は窓より5m位離れた所でへっぴり腰で見ています。女房に(そんな所で見るんだったら何も2,400円払って昇らなくても良かったのに)とバカにされたけど怖いものは怖いです。以前、東京スカイツリー、三島スカイウオークに行った時も同じです。本日は反省してホテルに帰ります。ラウンジで飲んでカラオケラウンジへ前回は誰もいなかったが本日は酔っ払いのおばちゃんが1人います。すぐに5~6人の団体が入ってきてかなり賑やかになりました。私達は少し歌ってお休みです。

 6月18日はオープントップの赤い2階建てバスで台北市内、東西、南北と廻る4時間1,200円のチケットを買って市内観光です。2階から見る風景もまた違って新鮮に見えます。東西線は台北駅から台北101を廻るコース南北線は台北駅から故宮博物館を廻るコースで乗り降り自由4時間以内なら何回でもOKです。

 6月19日は日本に帰ります。17時発のCI-150便チャイナエアーラインです。ホテルの横に桃園国際空港行のバス停が有りますが時刻表がなくただじっと待つだけ、バス停に20分~30分待つと必ずバスが来ますと日本語で書いてあって待っていると本当に20分後に来ました。桃園国際空港まで400円で1時間30分かかります。第2ターミナルで降りカウンターで荷物を預け審査を受け制限区域へ。お昼ご飯がまだだったのでプラザラウンジへ。食べて飲んでまた違うラウンジで食べて飲んで。女房殿は風邪をひいていてつらそう。○○はひかないと言いますが迷信?。親切な台湾の人達、何を聞いても親切に教えてくれる。とにかく親日だ。バスの運転手、警官、タクシー運転手、歩いているおばちゃんが特に親切です。今度、来る時はまだ行っていない十份、行天宮、龍山寺、西門町、夜の九份、北投、淡水、太魯閣峡谷、花蓮に行ってみたい。観て、食べて、飲んで、飲んで、歌った8日間楽しかった。日本に帰ったらバリバリ働くぞうと思う気持ちだけなにせ60代やる気はあるけど体がかなりついていかない。

 

 

消防コーナー

地震に備える27

名古屋市消防局OB 近藤 博

 

明治24(1891)濃尾地震(23

 

引き続き、「中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」報告書1891

濃尾地震 平成183月」の報告書をもとに、当時の人が記録した報告等から

地震直後の実情をみていきたいと思います。

 

○ 陸軍第三師団の活動

1 岐阜県での活動

  報告書では、岐阜県での第三師団の医療活動を以下のように述べています。

  「岐阜県が名古屋在駐の第三師団に救援を要請したのは、震災発生翌日の

29日であった。岐阜県は薬品・包帯を携行する医官4,5名の派遣を求め、翌

日に第三師団から田中一等軍医と石野・武市三等軍医が来県した。早速田中

軍医は加納へ、石野・武市軍医は笠松に出向くよう要請された。また、31

には、陸軍三等軍医医学士鶴田禎次郎が治療のため来県した。」

  「岐阜県には、様々な団体や組織から医師が治療救援のため派遣されてい

ましたが、119日の各医師団の所在地は次のようであった。赤十字社は大

野郡古橋村(現瑞穂市の一部)、大阪ベルナベ病院と東京赤坂病院は竹ヶ鼻町

(現羽島市竹鼻町周辺)、帝国大学佐藤三吉氏一行と京都同支社赤十字社京都

支部は大垣町、岩佐・高階侍医は厚見郡近之島村(現岐阜市近島)、第三師団

軍医3名と大阪高安病院は根尾村、東京学士院会員は各務郡芥見村(現岐阜

市東部)、陸軍軍医学会は加納町、大阪府立医学校は笠松町となっている。」

  「第三師団の軍医は高安病院の医師と共に、震源地に近くそこへの到達も

容易ではなかった根尾村で治療を行っていた。彼らは11日になって師団長か

ら滞在延期の許可が下り、陸軍軍医学会の菊池軍医正一行も滞在を延ばして

治療活動を行っていた。」

 (明治期の住所と現在の住所地の照合は Wikipediaによる)

  震災後、各地から多くの医療機関や団体が医療支援活動のために岐阜県内

に入っていたことが分ります。岐阜県における第三師団の支援活動は、医官

の派遣という医療活動に限られていましたが、衛戍地(えいじゅち)である

名古屋では医療活動だけというわけには行かなかったようです。

 「衛戍」とは旧陸軍において陸軍軍隊が永久に一つの地に配備駐屯するこ

とをいいます。(出典 国立国会図書館デジタルコレクション 衛戍条例(明

21512日)勅令第30号 第1条「陸軍軍隊ノ永久一地に配備駐屯ス

ルヲ衛戍ト称シ(以下略)」

 

2 愛知県での活動

  第三師団は、前に述べたように「師団本部殆ど大破し」「負傷者17名、建

物全壊13棟、半壊1棟、破損285棟」と言う大きな被害を出していましたが、

歩兵第十九連隊を名古屋市西部に、歩兵第六連隊を東部の衛護にあてていま

す。また、同時に工兵隊は市内や西枇杷島郡各町村の消防活動にあたってい

ました。(『扶桑新聞』1031日)。

そのほか、第三師団では、この地域の予備役の召集を取り消す等、震災に

対する配慮を様々な形で行っていますが、これについては師団長であった桂

太郎(当時中将)の意向が強く働いていました。

  桂太郎は、「自伝」(『桂太郎自伝』)の中で大略以下のように述べています。

   震災発生とともに、歩兵2連隊の兵営勤務者以外を「市民保護の任務」

にあてるべく、名古屋市を二分して連隊を配置した。また工兵は「破壊

家屋の開掘」や消火活動に従事させ、「残部は罹災民救護の為に炊出し」

をさせた。

  岐阜には、先に述べたように「衛生部隊を組織して之を派遣」したと記し

ています。

 桂師団長が、こうした命令を下した理由について「自伝」では「自ら危惧

の念を起さしめざるハ、士気を阻喪せしめざるの一手段」だと述べています。

つまり兵士が動揺して士気を喪失しないように任務を与えたのだとしてい

ます。彼は、まず何よりも軍隊内の士気の維持を考えて、救済出動を命じた

ことになります。

 

 しかし、桂師団長が救助そのものを目的として軍を動かすことを考えなか

ったわけではないようです。

「自伝」を見るとおおよそ以下のように記しています。

  師団条例にハ、斯る非常災異の場合を示さざれバ、或ハ越権の責を免か

れざると認識していたが、「地方鎮護の為に常置せられたる兵ハ、斯の如

き災異の起りたる場合に於てハ、此に応ずるの処置を為すべきハ勿論」

であり、自らの責任で実行すべきか、「条例に命ずる所に随い、地方官の

要求を待て平々凡々初めて手を下」すべきか、判断が分かれるところで

あるが、「自ら責を引て所信を実行」した。と述べています。

  これによれば、軍の動員は師団長自身の責任で行ったものだとしています

が、重要なことは、師団の規則には災害時にどう対処するかについての規定

が何も無かったという事です。地方官(県知事)の要請で軍を動かす場合の

要請とは、「地方の擾乱(じょうらん、乱れ騒ぐこと・騒乱)若(もしく)ハ

事変」であって、災害救済は想定されていなかったことになります。

 「自伝」では、上記のように述べていますが、自身は師団の活動は師団条

例からの逸脱と捉えていたためか、桂は後に進退伺いを出しています。

 一方では、今回の災害出動は軍と市民との間を近づけ、自画自賛の気味が

ありますが、軍が市民に敬愛される存在になったと述べています。

  従来は師団と市民の親ミ薄く、唯鎮台さんと称し、或部分よりハ厄介視

せられし有様なりしが、此時よりして名古屋は第三師団の衛戍地に在り、

衛戍兵なるものハ、非常異変の際にハ我々を保護すること此の如し、是

恒に敬愛せざるべからざるなりとの感覚ハ、一般市民の脳裏に印せられ

たり。

 

  第三師団から派遣された軍医が治療に専念した根尾村では、軍医の「療医

懇切慰撫周到死者ヲシテ復タ起タシメ枯骨ニ肉ヲ生セシメ」た医療活動に対

し、桂師団長に感謝状を贈り、感謝の念を表しています。

 報告書は、「このような事例から推して、第三師団が震災活動に従事した活

動を通して、地域住民の師団に対する親しみや信頼感が高まったと見てよい

だろう」とし、「震災が契機となって軍隊の活動自体や軍と住民のとの関係が

変化していったという事例は、軍だけではなく他の組織自体も住民との関係

が、震災を契機として変化していったことを推測させるものである」と結論

付けています。

 

法律コーナー

未成年者の子との面会交流の禁止

弁護士   松 永 辰 男

 

夫婦が離婚した場合、どちらが二人の間の未成年の子を監護するか決めなければなりません(民法766条1項)。そこで決められた親が未成年の監護親になるわけでして、その後は未成年の子は監護親のもとで暮らすことになります。幼児の場合は概ね母親が監護親になることが多いのですが。そうしますと監護親にならなかった親は子に会うことができません。そこで監護親でない親が子との面会交流をどの様にするかを決めるわけです。ところが、監護親ではない父親と未成年者との面会交流を条件付きで禁止する決定がありました(名古屋高等裁判所平成29年3月17日決定・判例時報2367号58頁)。この決定は、名古屋家庭裁判所一宮支部の面会交流を認めた決定に対する即時抗告に対するものでして、その内容は、父親と未成年の子との面会交流は、母親との間で面会交流を許す新たな協議が成立するか、これを許す家庭裁判所の審判が確定し又は調停が成立するまでの間は未成年の子と面会交流をしてはならない、というものでした。そのように決定した理由としては、未成年者が頑なに父親との面会交流を拒否し続けていること、法的に認められているとはいえ、父親によりなされている面会交流をもとめる間接強制の措置につき、いかに母親がこの事実を隠しても、学業が顕著に優秀で聡明な未成年者がこれを鋭く察知し、父親が金目当てで面会交流を求めているなどと敵意を抱き、そのような事態に及んでいるのは自分のせいだと自らを強く責め、父親を拒否する心情を一層深めるに至っていることを認めることができること、未成年者は面会交流後、発疹、不眠、食欲不振、発熱等の症状を呈するに至っていること、等によれば、「遅くとも平成28年12月に一部実施した面会交流において、未成年者と父親との面会交流をこれ以上実施させることの心理学的、医学的弊害が明らかとなったものと認められ、それがこの福祉に反することが明白となったというべきであるから、同月以降の直接的面会交流を認めるべきではないことが明らかになったということができる、としました。抑々この夫婦は平成17年に婚姻し、平成18年に未成年者が生まれ、平成19年6月に親権者を母親と定めて調停離婚しました。その後父親は未成年者との面会交流の申立をし、裁判所内や公園、ショッピングセンターなどにおいて試験的な面会交流を重ねたが、未成年者は父親との面会交流を終始拒否し続けてきました。1歳9か月頃は父親に触れられると泣き出す状況でした。父親を「不快」と感じていたようでして、3歳ころまで待ってみるのが相当であると裁判官も説示したくらいです。そして、上記しましたように条件付きではありますが父親との面会交流は禁止されたのです。深刻な事件であると思います。

 

 

 

 

 

 

 

木祖村コーナー

第32回全国日曜画家中部日本展出品者を募集します

第31回長野県知事賞作品 『碧のとき』
第31回長野県知事賞作品 『碧のとき』

 

長野県木祖村は木曽川の源流の里であるとともに、日曜画家の村でもあります。下記のとおり実施いたしますので多くの皆様の出品をお待ちしております。 


 


出品規定 ○油彩画・アクリル画

            水彩画 F10号
     ○ご自身の未発表作品に限ります。
     ○具象・抽象は問いません。
     ○完全に乾いた状態で出品してください。

部    門  ① 一般部門
     対象者・・・画業に従事しない日曜画家
     出品数・・・1人3点まで応募できます。
     出品料・・・1作品3,000円 1点追加ごとに1,000円の追加出品料
                (3点出品で5,000円) 
       ② ジュニア部門
     作品・・・油彩画・アクリル画・水彩画 F8号・P8号
     対象者・・・高校生以下
     出品数・・・1人2点まで応募できます。
     出品料・・・無料(1人2点まで)。 

        ※作品の送料は個人負担となります。 

   

応募方法 ○作品は額装せずに搬入してください。
     ○作品の裏面に、募集要項に添付されてる「作品貼付票」を必ず付け

      てご提出ください。   
     ○出品作品については、大切な作品を損傷しないように保護しご応募

      ください。
     ※受付と搬入は同時に行います。以下のいずれかの方法でご応募くだ

      さい。
①直接搬入
受付期間・・・8月20日(月)~8月31日(金) ※平日のみとなります。
        午前9時~午後5時まで (時間厳守)
搬入方法・・・応募票と出品料を添えてやぶはら高原イベント実行委員会事務局
       (木祖村役場商工観光課内)まで直接お持ちください。
②郵送搬入
受付期間・・・8月20日(月)~8月31日(金) ※必着
受付方法・・・作品は宅急便等、応募票・出品料は専用の用紙か現金書留(作品

       とは別便)にて受付期間内に到着するようにお送りください        

※出品料の送金方法やその他詳細は募集要項をご覧ください。募集要項は木祖村観光協会のHPをご覧いただくか、下記までお問い合わせください。
※来月の木祖村便りにて展示会についての詳細をお知らせいたします。

 

お問い合わせ

やぶはら高原イベント実行委員会事務局(木祖村役場商工観光課内)

399-6201 長野県木曽郡木祖村薮原1191-1  TEL 0264-36-2766  FAX 0264-36-3344

E-Mail yabuhara-event@kisomura.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記

編集後記

 7月9日に東海地方が梅雨明けした。今年は、昨年に比べ15日早い6月6日に梅雨入りしたが、梅雨入り後も梅雨時特有の雨が続くこともなく、比較的過ごしやすい日が続いた。6月後半には気温も30度を超える日が続き、関東甲信地方では観測史上最も早い6月29日に梅雨明けとなった。

 東海地方もまもなく梅雨明けかと思われたが、関東甲信地方の梅雨明けと同日に発生した台風7号が日本列島を包み込むように日本海を進んだことにより、梅雨前線が南下した。太平洋高気圧とオホーツク高気圧に挟まれて停滞した梅雨前線に南から湿った空気が流れ込んだことにより、九州地方から中部地方までの広い範囲に長時間雨が降り続いた。

特に、長崎県から岐阜県にかけて線状降雨帯が発生し、7月の平均降水量を大きく上回る雨量となったことから、11府県に大雨特別警報が発令され、各地で土砂崩れや河川の氾濫がおき、200人を超える方が亡くなられるなど大雨によるものとしては過去に例を見ない未曽有の災害となった。

毎年のように起こる大雨による災害に見舞われるたびに、想像を超える自然の恐ろしさを痛感するとともに、防災対策の重要性を再認識するところである。

 今回も被災された方のインタビューを聞くと、「まさか河川が氾濫すると思わなかった」とか「今まで一度もなかった」といった声を聴いた。過去に経験していないこと、自分の想定を超えることに対処していくことは難しいことではあるが、数十年に一度といわれる災害が毎年起こる現在においては異常気象ではなく想定内の気象状況としてとらえ対策をとっていくことが必要だと再認識したところである。

 防災対策には、十分とか絶対大丈夫というものはないが、災害による被害をできるだけ少なくするためには、一人ひとりが自ら取り組む「自助」、地域や身近にいる人同士が助け合って取り組む「共助」、国や地方公共団体などが取り組む「公助」が補完しながら機能していくことが重要である。特に「自助」については防災の第一歩であることから、日ごろから自分の周りにどのような災害の危険があるのか、その被害をできるだけ少なくするためには何をすればいいのかを考えて必要な対策をとっていきたいと思っている。

 

(T. T)