『しゅう雨の森林軌道』第31回フォトコンテスト入賞 撮影:ダイダン㈱ 佐々木 茂樹 氏

『しゅう雨の森林軌道』第31回フォトコンテスト入賞 撮影:ダイダン㈱ 佐々木 茂樹 氏

名古屋の風景

向 野 橋

高橋 宏章 氏 (㈲佐治施設工業)
高橋 宏章 氏 (㈲佐治施設工業)

 向野橋(こうやばし)は、1930(昭和5年)国鉄名古屋機関区に設けられたトラス橋である。国鉄の名古屋機関区設置が決定し、その広大な敷地のため分断される町を繋ぐために設置された。鉄製のこの橋はアメリカ生まれで、その歴史はさらに19世紀にまでさかのぼる。
 近鉄・JR関西線・あおなみ線など多数の線路を跨ぐ橋は鉄道好きな子供たちはもちろん、散歩道・生活道路として市民に長く親しまれている。

 かつては、車歩道橋(車線なしの対面通行)であったが、橋の老朽化に伴い、2002年4月以降は四輪車・自動二輪車(但し原動機付自転車は通行可)は通行止めとなった。

 2011年(平成23年)10月17日には、名古屋市の認定地域建造物資産に認定された。

会議コーナー

定 例 理 事 会

    1.開催日時  1月10日(水) 午前10時 ~

 

              1.開催場所  熱田神宮会館

 

       1.理事定数  17名

 

       1.出 席 者  理事17名 

               監事 2名 相談役 1名 顧問 1名

青年部会コーナー

第142弾定期夜間勉強会

開催日 12月20日(水)

                                   参加者  11名

技能開発部会・青年部会共催

 

 今回は東邦ガス株式会社に来ていただき、工事をする際の地中や周囲にあるガス配管に関する注意点や破損事故時の対応について教えていただきました。

 前半はガス配管の中でも埋設配管における深さや離隔距離と言ったルールを学び、後半は過去実際に起きた事故や現在東邦ガスが行っている、事故防止対策について話していただきました。

 東邦ガスとして特に注力していることは、管工事や電気工事だけでなく、建築工事における地面掘削や斫り作業、カッター入れ等の様々な敷地内他工事による配管破損事故をいかに防ぐかということでした。

 ガス漏れ事故は東邦ガス管轄内だけでも年間700件余りあるそうです。その内、上下水工事によるものが15%で、原因の大半は「配管があるとは思わなかった」・「供給していないはずだった」等、誤認や確認不足によるものとのことでした。

 対策としてはまず工事前に図面による確認、不明確ならばガス会社に連絡し確認すること。ガス管の経路調査は無料で行っていただけるそうです。また工事中に発見されたガス管に関しても連絡すれば現状ガス供給中かの確認なども対応していただけます。

 私も以前、工事中にガス漏れを起こしてしまい緊急で対応していただいた経験があります。

 改めて今後は事前確認の意識を高め、それでも起きてしまった際には速やかに一時処置とガス工事店への連絡など落ち着いた対応を心がけようと思います。

 今後も様々な勉強会を開催していきますので、皆様のご参加を心よりお待ちしております。

瑞穂支部 美野太陽

特別寄稿コーナー

セーフティー ファースト

名古屋市上下水道局 経営本部 営業部

北営業所 所長 栗山 芳樹

 

 安全、安心でおいしい水道水を気持ちよく使っていただき、使い終わった水をきちんときれいにして川、海へ返すのが上下水道に関わる私たちのおもな仕事です。仕事を行うのは生身の人間で、一つひとつの作業を手順にしたがって確実に行わないと、トラブルになったり、事故が起きてしまいます。ひとたび事故が起きれば、当事者はもとより、組織やお客さまにさまざまな損失を与え、社会の信頼を失うことになってしまいます。安全で確実な仕事は、なにより大事だと思います。「安全第一」です。

 ところで、この言葉に込められた思いをご存じでしょうか。1900年代初頭、増え続ける事故に心を痛めた、アメリカの製鉄会社USスチールのトップが、なんとか事故を減らしたいと考え、それまでの「生産第一、品質第二、安全第三」だった経営方針を「安全第一、品質第二、生産第三」に改めました。すると事故が激減し、それにつれて品質も向上し、生産性も上がったことから、この標語がやがて世界に広がったとのことです。「Safety First(セーフティー ファースト)」の日本語訳が「安全第一」です。

 人間は間違うし、機械は故障するものです。その前提で、安全で確実な仕事をしていくための仕組み、やり方を考えることが重要だと思います。例えば、複数人で、または複数回の確認を行う「ダブルチェック」、やり方や観点を変えて確認する「クロスチェック」、必ず起きるミス、故障を想定した「フェイルセーフ」、事前にミスや誤作動を防ぐための「フールプルーフ」といった考えを参考に、安全で確実な仕事を実現していくための努力、工夫が必要です。

 先日、営業所の安全衛生活動の一環で、名水協の組合員さんが施工する「普通式満期メータ取替」の作業現場を安全巡視する機会がありました。北風が強く吹き、寒い中での作業でしたが、作業車両の駐車位置、メータや工具類の準備作業、お客さまへの声掛け、本作業、施工後の確認、後始末など、安全に配慮しながら的確、円滑に行われていました。風が強いとパイプシャフトの扉の開閉にも注意する必要がありますが、そちらへの注意も万全でした。中でも、見習いたいと思ったのは、作業者の方が、作業後のチェックを指差し確認されていたことです。安全で確実な仕事のためにとてもよいことだと思いました。

 大手有名メーカーの検査データの改ざんなど、安全をないがしろにしているのではないかと思ってしまうことが報道されています。「安全第一」という、よく目にする標語ですが、今一度、この言葉に込められた思いを知り、形骸化させないようにして、安全で確実な仕事を実現していく意識を高めたいと思います。安全は生命、身体の安全だけでなく、もっと広く財産、情報等の面も含めた安全であり、仕事も技術、事務含めたすべての仕事という意味においてです。 

 今後とも、安全で確実な仕事を通じて、お客さまから頼られ、喜んでいただけるサービスを提供していけるように、力をあわせてがんばりましょう。

もちろん、家族への感謝と「家内安全」も忘れずに。

筆の泉コーナー

捕手

 名古屋市上下水道局 総務部 調査課

主事 宮下 大佑

 

 皆さまは、野球のキャッチャーと聞くとどのようなイメージをお持ちでしょうか?地味だとか、大変そうというイメージをお持ちの方も多いかと思います。私は、中学時代から20年間キャッチャーをやってきましたが、イメージ通り地味で大変です。しかし、やりがいがあり、楽しいポジションでもあります。特にキャッチャーの醍醐味は配球を考え、ピッチャーを組み立てていくリード面だと思います。今回は私の配球の考え方についてお話しさせていただきます。

 配球は、野球において重要であり、良いピッチャーでも、配球によっては打たれてしまいますし、逆にピッチャーの調子が悪くても、配球によって抑えられることがあります。私が配球を決定するうえで、最も必要と考えるのは情報です。ピッチャーの調子、試合の場面、バッターのバッターボックスでの立ち位置や目線、相手ベンチやランナーの様子など、様々な情報を取り入れ配球を考えます。具体的な組み立て方ですが、前述の情報を基にまず最後に投げる球を決め、そこから逆算して配球を決めていきます。例えば、最後に外角の変化球を投げ、三振を取るというプランでしたら、その1球前は、決め球の変化球に手を出しやすいように、外角に直球を要求する、2球前は、ストライクを稼ぐために、内角に直球系の球(シュートがあればベストですが)を要求する、3球前も、ストライクを稼ぐために2球前と同じ球を要求する、4球前は(初球)、様子を見るためにボール球のカーブから入る、のように逆算し、配球を考えます。しかし、このようにうまくいくことは少なく、この逆算を基本にしてバッターの反応や、ピッチャーの投げる球によって変更していきます。また、1打席目は打たれる可能性があったとしても、2打席目以降効果が出るよう、しつこく同じ球種を要求するなど、総合的に判断することもあります。このように、柔軟に配球を考える必要があり、特にアマチュアでは、初対戦の相手が多いため、瞬時の判断がより重要になります。

 配球を考えることは、責任があり、精神的に疲れる作業ですが、その分やりがいがあります。しかし、キャッチャーは縁の下の力持ちであり、バッターを抑えてもピッチャーが凄い!となりがちです。水道、下水についても、水は出て当たり前、下水は流れて当たり前と思われており、当局や組合の皆さまも、縁の下の力持ちのような存在かと思います。公私ともに縁の下の力持ちになれるよう、がんばろうと思う今日この頃です。

談話室コーナー

駅伝に魅せられて

熱田支部・株式会社テックササキ

横井 宏幸

 

 駅伝は一本の「たすき」を繋いで、それぞれの力を結束して走りきるところに魅力を感じます。

 テレビ中継していると思わず見入ってしまいます。有力選手に新人選手、外国人選手、兄弟選手、下り坂が得意な選手、怪我から復帰した選手とそれぞれ情報がテレビ放送を通じて耳に入ってきます。そこで応援したい選手やチームが決まります。中でも箱根駅伝は歴史も古く、往路復路2日間にわたり競われる私が最も楽しみにしている駅伝です。駅伝シーズンの幕開けを飾る10月開催の出雲全日本大学選抜駅伝競走、11月の秩父宮杯全日本大学駅伝対校選手権大会と東京箱根間往復大学駅伝競走は3大駅伝と呼ばれています。

 箱根駅伝は、およそ100年前に世界に通用するランナーを育成する為に構想されたアメリカ大陸横断(サンフランシスコ、ニューヨーク間)という壮大な駅伝を実現する為に出場選手選考会として始まったそうです。箱根駅伝の参加資格は関東の大学に限られる所も不思議な魅力を感じます。

 私自身は子供の頃から走ることは好きでしたが、体を動かすことに縁がなくなり、50歳になる頃に地下鉄の階段を上がるとき、膝痛を感じたのが「きっかけ」でウォーキングを始めました。最初は歩くだけで筋肉痛になる程の運動不足でしたが、練習していく内に何とか2時間歩けるようになりました。そのうち、同年代のランナーが後ろからすり抜けてゆくのを見て、同じように走ってみたいと思うようになりました。旅行に行けば宿の朝食前に走るようになり、ディズニーランドや札幌、伊勢、長崎、石垣島など初めて訪れた場所では特に走るのが楽しみになりました。レベルの違いはありますが、箱根駅伝で次々に抜き去っていく選手を見て憧れを感じるのです。懸命に走って「たすき」を渡すときに笑顔で渡す選手がいれば、申し訳なさそうに渡す選手もいて、様々なドラマが繰り広げられます。全員を応援したくなり感情移入しすぎてしまうこともあります。出場する選手は各選手ともトップランナーばかりですが、その日の体調や調整の具合で意外にも予想が覆されたり、ヒーローが生まれるのも駅伝の醍醐味です。最近ではシード権を獲得できなかった有力校の予選会の厳しさも注目され、シード権争いの結果に一喜一憂します。シード権を失ったチームが本戦出場を目指し復活をかける。個人競技でありながらチームの総合力が結果を左右する。これは文化や伝統を尊重する習慣が背景にあるからこそ、駅伝が日本でしか開催されていない独特の競技だと感じます。

 地元、名古屋で観戦できる11月の全日本駅伝は熱田神宮西門のスタート地点で必ず観戦しています。伊勢神宮宇治橋前まで8区間106.8kmで競われます。選手を間近に応援することができ、スタート前の出場選手紹介から緊張感が伝わってきます。そこから南側の歩道沿いに向かうと、普段は広く感じる歩道を、所狭しと人々が行きかう中、各校の応援団が陣取り、応援合戦も至近距離で見ることもできる。吹奏楽の演奏に合わせて行われるチアリーダーの息の合った演技も大迫力で各校ごとに特徴があり、校風や伝統が受け継がれていると感じます。昨年の優勝校から点呼が開始されると、たまたま知り合った横浜から駅伝観戦に来たという女性が、応援している選手が通るたびに熱心に名前を呼んでエールを贈っていた。聞くと出雲にも箱根にも予選会にも足を運ぶそうで驚いた。選手がスタートラインに並ぶと周囲の緊張感は最高潮になる。いざスタートすれば、一瞬にして目の前を走り去り、あっという間に見えなくなってしまう。毎回、来るたびにスタート前のこの臨場感を味わうことは格別な満足感を感じます。次は箱根駅伝の観戦をと計画中です。箱根駅伝往路第5区の山登りと翌日の復路6区の観戦をいつか実現したいと思っています。

 駅伝の起源は情報伝達のための宿駅伝馬制度です。伝統を受継ぎ次世代へ引継ぐという歴史と、選手とチームを応援する人々の思いが融合して言葉では表せない魅力を感じるのです。

消防コーナー

地震に備える 21

 

名古屋市消防局OB 近藤 博

 

明治24年(1891年)濃尾地震(17)

 引き続き、「中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」報告書1891濃尾地震 平成18年3月」の報告書をもとに、当時の人が記録した報告等から地震直後の実情をみていきたいと思います。

 

愛知県の場合(その4)

6 新聞社の被害調査報道

 次に、憲兵隊等軍隊・行政機関ではなく、当時既に設立されていた新聞社の調査・報道がどのようになされたか見ていきたいと思います。『新愛知』『扶桑新聞』等、名古屋の新聞各社もそれぞれ地震後の初期の段階から調査・取材を行っています。

 『新愛知』(新愛知新聞社/明治21年(1888年)7月創刊)は、後の中日新聞になった新聞社の一つです。

 『扶桑新聞』(扶桑新聞社/明治20年(1887年)5月創刊)は、大正4年(1915年)「名古屋毎日新聞」と改題し、新聞統制により昭和17年(1942年)『新愛知』と合併しています。

 『新愛知』『扶桑新聞』とも、当時の有力紙でした。

(この項 出典 愛知県公文書館ミニ企画展「愛知の新聞史」より)

 

 以下は、『扶桑新聞』11月1日付に掲載された白水山人が記した「惨状実見の走書」です。

 この記事は、地震が止むと「腕車(人力車―引用者)を飛ばし当市中を始め南は熱田町に西は枇杷島町の西端なる新川まで親しく実地に就き惨状を目撃」した、実見記です。

 

7 名古屋市内の状況

 「当日寓居を出て本社(名古屋城近くの本町にあった―引用者)に赴くの途中屋瓦落ちて街衢(街中の通り―引用者)の両側に堆積し庇檐(ひさしとのき―引用者)傾き倒るゝもの数個を見るや其無惨なるに愕きたり、之れより市街を東西南北に馳駆(ちく、走り回ること)するに各町各戸多少の破壊と傾斜は素より数ふるに暇なく家屋の倒潰するもの少なからず。」

 名古屋市内は、屋根瓦が落下し通りの両側に積み重なっており、かなりの家が倒壊したり傾いているような状況だったようです。市内を東西南北に走り見たが、各町各家とも多少の破損と傾いた家は数えることが出来ない程多く、倒壊した家屋も少なからずあったと述べています。

その後憲兵隊報告にあった熱田町の愛知紡績の被害を見た後、方向を転じて名古屋城の中に設置されていた第三師団本部(明治21年に従来の名古屋鎮台が改編されたもの)に向かったことが記されています。

 「之れより車を転じて師団に入れば、師団本部殆ど大破し、流石の城門破れ城濠も塁石潰崩して水中に落ち、巾下門近傍にては大地の四五寸揺り入りたるを見る」

 師団本部は大きく破壊され、名古屋城も門が破壊し石垣は崩れ濠中に落下する程の被害を受けていたことが分かります。巾下門近傍の「揺り入り」の意味がよく分かりませんが、文脈から見て大地に12~15cmの亀裂が入ったのではないかと思われます。

 名古屋市内も、大きな被害を受けていたことが分ります。

 

8 枇杷島付近の状況

 その後、白水山人は名古屋城から更に北(現在の名古屋市西区,北区一帯)へ向かい、橋が落ちたり、家屋が倒壊したりして通れない道を迂回して、西春日井郡に入っていますが、ここの状況は一層惨憺たる有様であったと述べています。

 「西東枇杷島町(正確には枇杷島村と西枇杷島町―引用者)に至れば、両側の家屋八九分通り倒れたる上、出火のため消失せし所少なからず。〔中略〕

之より西新川に至る両側悉く倒れ、失火さえありて更に残酷を極めたり。当師団工兵其他土民の死屍を掘り出す様、児女の鳴哭する声、見るも悲惨、聞くも悲惨、真に此の世にて地獄を見たる思いをなせり」(句読点 筆者)

 

 白水山人は、名古屋市と隣接する枇杷島しか見ていませんが、枇杷島以北は、相対的に震源地に近く、また地盤も弱いためか被害は一層甚だしいものになっていたのが後になって分かってきます。

木祖村コーナー

冬の暮らし体験 in きそむら2018

編集後記

編 集 後 記

 何度かの寒波も過ぎ去り、季節は巡っていく。少し春ある心地こそすれ との下の句に 空寒み花にまぎえて散る雪に と上の句を返す風流があればと思うが、先月の草津白根山では、雪ならぬ噴石がスキー場のゲレンデにも飛び、犠牲も生じた。御嶽山での惨劇がよみがえる。

 

 平成26年9月の御嶽山の噴火を契機に強化された常時観測火山は、50もあるそうだ。この近辺だけでも他に白山、乗鞍岳、焼岳、弥陀ヶ原(立山)、富士山、箱根山と活火山に囲まれて暮らしているとも言えるのである。

 噴火自体は、火山の歴史にとっては当然にあることで、何度かの噴火があってこそ、現在の山体が成り立っているのであろう。が、この列島に暮らす人々は美しい風景や温泉、そして急峻な地形が育む軟らかな水などその恩恵に与る一方で、突然の気まぐれな爆発にも上手く付き合っていかざるを得ない。

 

 熊本地震にみまわれた熊本も阿蘇あっての肥後の国、肥後の水であろうし、西郷どんの国も桜島があっての薩摩人であろう。人はその生まれ育った土地や水もその中に含まれるところの環境に育てられてきたのだとも思います。

 海外に転じてみると、ムーミン谷ならぬトーベ・ヤンソンの母国では、赤ちゃんに凍った湖で湖水浴?をさせ、おとなになって「今日は、マイナス32度。暖かくて、助かる」(「成熟脳」黒川伊保子著、新潮文庫から引用)などと言わしめるそうである。人々が暮らしを営む世界の環境も想像を超えることも多い。

 

 その世界中の異なる環境で育った人々が集う平昌でのオリンピック・パラリンピックも9日に開幕をし、ウインタースポーツから遠ざかっている我が身も、選手になったつもり若しくは選手の身近にいるつもりになって応援したいものだ。

 

 雛の祭りのあたりまで時に寒風が吹くことがあるかもしれませんが、九州や極北に暮らす人達の温かさやたくましさにも共感を覚えながら、花粉の舞い散ることの少ない春を心待ちにしたいと思います。

(E・Y)